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文人、芸術家が愛する九十九里。
そのひっそりと立つ石碑からは夢二の思いが伝わってくるようだ。
外房の荒海に向かう漁船が停泊する旧片貝漁港の傍らの松林には、文人、芸術家「竹久夢二」の石碑が建立されている。
九十九里と夢二の接点を探ってみた。
(左写真:竹久夢二/宵待草の石碑)
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【竹久夢二とは?(1884〜1934)】
夢二は明治17年岡山県の酒屋生まれ。
早稲田実業在学中の明治38年、コマ絵『筒井筒』の一等入選により初めて世に名をあらわした。
24歳のとき最初の妻たまきと結婚、長男虹之助をもうけた。が、2年で離婚。原因は夢二が銚子の海鹿島で『カタ』という女性に一目ぼれしてしまったからだ。夢二は何かしら口実をつけてはカタに会いに行った。そのときのことを「九十九里月見草さく浜づたひものおもふ子はおくれがちにて」と夢二は詠んでいる。しかしカタは鹿児島で結婚してしまい、その恋は叶わないものとなった。皮肉にもこの失恋があの有名な『宵待草』を生むきっかけになったのである。夢二の傷心のうたとして…
その後『宵待草』は歌や映画にもなり人々に親しまれ続けた。そして『宵待草』の碑が全国各地に建てられ、1966年9月には九十九里浜にも碑が建てられている。
大正3年、夢二は生涯の恋人『彦乃』と会う。しかし大正7年彦乃は病に倒れ 25歳という若さでこの世を去った。
その後夢二は数々の女性を愛したが、その 悲しみが消え去ることはなかった。そして 夢二自身も49歳(昭和9年)でこの世を後にする。
【夢二が残した作品たち】
『夢二武美人』
多数の夢二画集や雑誌を通して
大正期の大衆の心をと とらえた。
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『林檎』
この作品は木と、女性が曖昧で、
もはや一体化している
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『あきつ』
明治44年に出版された夢二の著作本の付録として
折り込まれたものだった。
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『立田姫』
夢二自身この作品を「ミスニッポンだ」と語った
自信作であった。
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夢二は郷愁を日本画、油絵、水彩画、木版画などにあらわした。しかし生前は独学の大衆画家であったため、画壇からは無視されていた。正当な評価を得たのは第二次大戦後だった。
竹久夢二は生活美術、商業美術の先駆者と現代において評価されている。
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