徳富蘆花 〜小説家の愛した海〜 九十九里町 史跡の旅 (文責 竹村 彩) 

  おすすめスポット

夏はサーファー向け監視所もできる九十九里町、粟生海岸。近くのセブンイレブンでは、サーファーも観光客も「簡易温水シャワー」を利用している。
そこから徒歩6分の海岸に石碑は建つ。
九十九里有料道路(波乗り道路)からも見えるが、一瞬のため、見つけることは難しい。
晴れた日は太東岬も銚子も見える粟生海岸。
文化人「徳富蘆花」が見た風景から過去を振り返る時間も必要かもしれない。
 
豊海海岸の波乗り道路沿いに建っている蘆花随筆の石碑

【徳富蘆花(1868〜1927)とは?】

 明治大正の小説家。本名は健次郎。熊本県水俣の名家に漢学者の一敬を父に、蘇峰(そほう)を兄として生まれた。
 蘆花は歴史家を志して同志社で学んでいた。しかしその間にキリスト教思想の影響を受けて歴史家になることをあきらめた蘆花は同志社を12歳で退学。その6年後、蘆花は18歳で上京し、兄の経営する民友社のもとで『人物史伝』や『短編小説』を発表し始めた。その後、原田愛子と結婚するがチフスという病気にかかってしまい愛子は入院してしまう。

【不如帰連載開始!!】
 その間に蘆花の代表作である恋愛小説『不如帰』(ほととぎす)を1898年国民新聞に連載開始した。後の1900年に『不如帰』は単行本として出版されベストセラーとなる。『不如帰』はしだいに各国に翻訳され世界的にも広まっている。
 そして続いて出版された随筆『自然と人生』、『新春』(注)も好評だった。 さらに長編小説『黒潮』は独自の社会小説となった。蘆花はこうして小説家としての名を高めていった・・・。
 (注)『新春』(新春の九十九里)・・・大正6年の春から夏にかけて『まりやの』に連載され初版を出しこれまたベストセラーとなった旅行記。
(右写真:徳富蘆花の碑に記されている「新春」一部)

 しかし妻愛子の病状が悪化したために伊香保に療養しに向かった。1917年の4,5月は夫婦で伊香保に滞在。蘆花はこの時50歳。7月に入ると蘆花は九十九里浜で避暑生活を送った・・・。その後、たび重なる長期間の執筆に蘆花自身も疲労によって健康を損ねてしまう。そして、伊香保で療養中の昭和2年(1927年)9月18日兄蘇峰と再会したその夜に60歳で亡くなっている

【九十九里での療養生活】
 「九十九里!そうだ九十九里へ行こう!海。海に限る。大洋へ行こう。力強い波脈九十九里へ!」そう叫び大正6年、蘆花は妻と共に九十九里へ向かった。(*新春より)
その『新春』の中で「上総の九十九里くらい美しい浜はありません」と書き記している。 それ程九十九里を気に入っていたようだ。
 さらに蘆花は毎朝、早く起きて海で泳いでいた。(もちろん夫婦で泳ぐこともあった)その時こう思ったそうだ。「全く九十九里は大きい。私にはこの空と洋の抱擁がたまらなく嬉しい。」と。 他にもいろいろと歩いたり、祭りに参加したりした。こうして徳富夫婦は1ヶ月の九十九里での療養生活をぞんぶんに楽しんだのだった・・・。


 ●アクセス情報
 


【場所】
千葉県山武郡九十九里町 粟生海岸 ⇒ こちらの地図より、お越しください。

【交通】九十九里鉄道 粟生納屋バス停より 徒歩8分

※九十九里浜の主要な海岸とは違いあまり広い駐車場ではありませんので、 譲り合って駐車場を利用ください。
また、周辺はハマヒルガオの生息地です。貴重な植物を大切にしてくださいますようお願いいたします。


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